コンニチハ★

桜塾のMAEDAです(・∀・)

 

昨日、ちょうど近くで流れていたラジオを聞いていると、

昨今問題とされている「体罰問題」についての話が出ていました。

一緒にいた年上の知人から

「前田君は体罰についてはどんな意見を持っているの」

という話を振られたので、

ちょうどそのときにした話を含めブログにまとめます。

 

自身の体罰経験

私のこれまでの部活歴をお話すると、

小学校3年生から地元の小学校からサッカー部、

そのまま中学・高校でもサッカー部、

大学ではフットサルをやりながらボクシング部

大体10数年、何らかの部活に属していました。

どの時代にも指導者には恵まれ、

小中のときの恩師は結婚式にも来ていただくような

一生の付き合いをさせてもらっています。

 

一方で、体罰とも長い関わりがあったように感じます。

小学校のときが最も多かった記憶があります。

当時のT先生は挨拶がわりにビンタしてきたり、

プレーが甘かったり態度が良くなったりしたときには

容赦なくゲンコツや蹴りが出てくる先生でした。

中学・高時代のコーチには手を出されることはありませんでしたが

大学での監督は昔ながらの鬼のような人で、

遅刻などに関しては当時でも珍しい「丸刈り」のような

ペナルティが存在しました。

 

また、中学・高校時代の先生には竹刀などの武器を持ち歩くような

先生も普通に歩いていて、制服の違反などの生徒には容赦なく

一発食らわせるような先生もたくさんいました。

 

体罰容認か非認か

ちょうど数年前、記憶には少し古いですが

大阪の桜ノ宮高校での体罰問題のニュースがありました。

まさにその年、塾に在籍していた生徒で

同校の受験を考えていた生徒がいました。

彼は桜ノ宮でバスケ部に入り、全国を目指すという目標がありましたが

部の停部が決まり、志望校の変更を余儀なくされました。

そのときの保護者の方、そして本人の苦悩していた時間は

今でもはっきりと覚えています。

 

結果的にその生徒は別の高校へ進学し、

今は社会人として頑張っていますが、

今でもその当時の話になると、やり切れない気持ちが沸くと言います。

 

当たり前のように体罰を受けてきた私としては、

体罰を通じて感じたことも多々ありますが、

やはり体罰は容認すべきではない、という意見です。

自身が指導に当たる上で一度も体罰は課したことはないし

それはこれからも変わり続けることはないでしょう。

 

それでも年配の指導者はもちろん、

同年代や年下の指導者でさえも今なお

体罰による指導のニュース報道には枚挙に暇がありません。

朝日新聞「体罰ニュース」のまとめ

 

彼らがなぜ「体罰」「暴力」による『厳しい指導』に走るのか

それは推測でしか語ることはできませんが、

一言にいうなれば、そういう時代だったということでしょう。

そのような指導が当たり前であり、

その中で見えた変化や手にすることができた結果があり、

周りもそれを受け入れ前に進むことを選んでいた環境があった、

そういうことです。

 

昔は全て間違いだったのか

ここで私が問題視したいことは1つ。

テレビで体罰問題が取り上げられるたびに

コメンテーターのような人たちが口をそろえて言う

「体罰はどんなことがあっても許されることではない。

 だからこれまでの指導は全て間違っている。

この類の発言です。

私も含め、体罰的な指導を受けてきた人間は少なからず

あの時代はあの時代で自分が得られたことはあった、

そう思っています。

その上で、先に述べたように「体罰は良くない」と

考えているわけなのです。

だからこれからの時代、手や足を出さずに

子どもたちを指導でき、また競技の結果のみならず

人間的に成長してほしいとも考えています。

そこに「昔は間違っていた」という考えを入れる余地はありません。

 

実際にそういった指導によって結果を出し、

また人間的な成長があった人たちも多くいます。

そんな人たちが皆「体罰はあって然るべきだ」と

考えているわけではありません。

当時はそうやって気づけることもあったのだ、

今とは違っていた、考え方の違いなのだ、

それでいいのではないかと私は考えています。

 

少し話はそれるかもしれませんが

過去を否定すること、

それは敗戦しそれまでにあった戦前の歴史を否定することと

似通った考えさえもあると考えています。

昔の日本の考えは間違っていた、

あの時代のことは恥ずべき記憶・歴史であり

語るにも及ばないことである、というような考えは

歴史を学び、歴史から新たな考えを生み出す機会を失わせます。

 

以前ブログでも話したことのある

「正しいと正しいはぶつかる」意見と繋がります。

「Aが正しい。こうすべきだ」と「Bが正しい。こうすべきだ」

この論点ではAとBは交わることはありません。

そうなるとどちらかが〇でどちらかが×という結論にしかなりません。

どちらも時代など他の条件を前提にした考え方としては正しい、正しかった、

それを認めることが必要ではないでしょうか。

 

私の考え

私は体罰について容認していません。

自身も体罰はしないでしょう。

でも、それがまかり通っていた時代にまで

今の当たり前をあてはめて否定をするつもりもありません。

なぜなら、それは自分の過去をも否定することになるからです。

そういう時代もあったのだ、と認めた上で

より良い指導、より良い関係性の築き方を模索し続けたいと思います。

全ては目の前にいる子どもたちのために何ができるか、

きっとこの部分は全ての指導者に通じることだと考えています。

 

本日も桜塾ブログにお越しいただきありがとうございます。