さあ行こう!
願えばどこでも行ける!
9月目標
今日やるべきことを今日中に終わらせること
先日、大学時代の部活の同期のキャプテンだったやつの墓参りに奈良まで行ってきた。
秋とは思えない晴天、いや灼熱の空。
行きと帰りで乗り換え9回の道のりをなんとか同期メンバーと歩く。
途中で花や線香、そいつが好きではなかったビールを買い、暑さに負けてもう飲んじゃおうやとゴネる私を他全員が止めながら、駅から墓地までの道を歩く。
到着後、墓石を洗い、線香をつけ、そいつへの想いに手を合わせ、そいつの分まで買ったビールで全員乾杯したあと、
「去年も来たけどさ、なんかこの墓違うくね?」
「実は俺も思っててん。けど墓に書いてる名字はあってるよな?」
「ちょ、おまえ、向こうの墓ちゃうか?」
「え、あ、ほんまや、この墓あいつの名前ないやん!」
一同、気まずさMAX。
乾杯までしたのに。
ごめんごめんとそいつに謝りつつ、実際に本人がいてもこんな風なメンバーだったなあと、改めて思い出を振り返る一同。
未だに私はこいつが生きていてどこかで仕事をしていて、ただ忙しくてこの同期の集まりに来れないようなそんな気がしている。
部活の集まりに参加するときも、実は同期で結婚していないのは私だけなんだが、笑
先輩から「残ってんのはおまえだけやなあ」なんて言われると、すかさず
「いやいや先輩、○○(同期のそいつ)もいますやん!」と返す。
「あいつはおらんやろ!笑」というツッコミを期待しながら。
それが今では笑い話にできるようになっていることが、いつまでもそいつを忘れないための、弔うための一つの儀式のようにさえ思えるようになっている。
誰かが逝ってしまうということと、いなくなってしまうということは、本当の意味では別のことだと思う。
人はいつか必ず死ぬ。これだけは唯一絶対なこと。
けれど、死んだあとでもその影響というのは、残された側が忘れないことで後に残していける。
一時の悲しさはあるが、それをいつまでも引きずるあまり、その人間のことを忘れようとしてしまうこともあると思う。
実際、初めてそいつの実家に線香をあげに行かせていただいたとき、そいつのお母さんはひたすら泣いていて会話にならなかった。
二回目、三回目となり、こちらからそいつの大学時代の話などができるようになると、少しずつ、「へえ、あの子がそんなことを言ったのね」「家ではこんな子だったのよ」などと、色んな会話をすることができ、こちらも知らないそいつの一面を知り、家族が知らない様子などを伝えることができた。
人が死ぬときは忘れられたとき。
誰かがそんなことを言っていた気がするが、今は会えない誰かのことも、ときに笑い話で話せるような人間、そいつのことを想って頑張れる人間でいれたらいいと思う。
Whatever happens,
We will always be grateful for all the good time we shared.
さぁ今日もカッコいい自分、『理想の自分』目指して、寝る前には自分を褒められるようなNEVER BETTERな1日を過ごしていこうか!!
墓場でビールかけしなくて良かったと思っています。爆