ふと思ったこと。
今日、とある生徒から連絡があった。
「先生、今後の授業なんだけど、親が『どうせたいした高校に行くわけじゃないんだから』て言われたから、夏以降は授業あまり取れません」
家の事情ってのはよくあることで、こういった話もよく聞く。
本当に仕方のない状況なら、それも仕方ないと思う。
昔私がいた塾は、「最高の教育は最高のビジネスだ」という指導スタイルだった。
つまり、教育にお金をかけられる家庭にはいくらでもサービスを提供するが、そうではない家庭はそれなりの中でやる、ということ。
大手と呼ばれる塾のスタイルは今なおそうである傾向が強いし、よって家庭の懐の差が、子どもの学力の差に結びつく結果ともなる。
その言葉は確かに真意をついているし、現代日本の教育業界を見ても、高学歴の親の8~9割は高収入、中流以上の家庭であるというデータもある。
しかし、それで本当にいいのだろうか。
確かに、ある程度の教育にかける費用は必要だと思う。自分が子どもに教える時間、能力がないのであれば、そういった塾・予備校に入れようと考えるのは普通だし、それによって子どもの将来の可能性が開けるのなら、それがお金で買えるのならそれは正当な代償だ。
ただ、子どもが頑張りたい気持ち、変わりたい気持ちを親が精一杯理解した上で、それでも限界があるなら、教育というサービスを提供する側がその想いをいくらか汲んであげることがあってもいいのではないか。
それをどこまでやるべきか。
その最低ラインを見極めること。
それはつまり、やる本人の覚悟だ。
先に述べた連絡のあと、その生徒にすぐに電話をし、その本意を聞いた。
「親が何ていうかわからんけど、自分は頑張ってみたい。行きたい高校に行けるよう頑張りたい。」
・・・それを聞いてしまったから、こっちも頑張らないとあかんくなるやんか。
明日また親と話すというので、とりあえず電話を切った。
ときに思う。
自分は経営者なのか、教育者なのか。
おそらくきっと、そしてこれからもずっと、キレイごとを言い続けてしまう、経営者になりきれない教育者なのかなぁと思ったりもするが、それでもこのやり方、そして今の自分の周りを取り巻く人たちや環境が変わらないでいてくれる気がする。
そしてその結果が、いつか自分を納得させ満足させるカタチになる。
そういった意味で自分が成功と思える自分になっていける。
うまくいくイメージしかないけれど、今日みたいな悩みなんかにぶつかりながら、ちょっとずつ進歩していこうと思う。
目の前のことに真剣に取り組みながら、少しずつ進んでいこうと思う。
涼しい夜になってきましたね~
こんな夜は仲間集めて夜風切りながらドライブでもしたいなぁ。
いつか、今の生徒たちが大きくなっても付き合えてたら。
さぁ、今日もカッコいい自分、『理想の自分』を目指して、寝る前には自分を褒められるようなNEVER BETTER(これ以上ない)1日を送ろうか!!