熱が出たりすると 気づくんだ 僕には体が あるってこと
鼻が詰まったりすると 気づくんだ 今まで呼吸を していたこと
君の存在だって 何度も確かめはするけど 本当の大事さは いなくなってから知るんだ
ちょっと前に流行った歌に、こんな歌詞があった。
最近、「欠乏動機」ってコトバがすごく頭をよぎる。
簡単に言うと、そこにないから欲しいっていう気持ちのことね。
とあるテレビ番組で、(っつっても塾長宅にテレビないんだけど)六本木ヒルズに住んでるセレブにインタビューしてたのを聞いた。
インタビュアー「この世の中で一番美味しいものって何だと思いますか?」
セレブ「一番美味しいもの・・・う~ん何かしらねぇ。…わからないわぁ。」
一方で、アフリカを訪れた黒柳徹子さん(あれズラらしいね)は言っていた。
黒「現地の子供たちに、どんな食べ物食べたい?って聞くと何を答えると思う?」
答えは、
黒「『ちゃんとした食べられるご飯なら何でも』ってやつれた顔して言う」んだって。
日本に住んでいるセレブとアフリカの子どもを比較するのもちょっと違うかもしれないが、ちょっと考えてみよう。
今の時代、飽食、そして有り余るモノの数が私たちの感覚を麻痺らせてる。
ある程度なら、欲しいものは何でも手に入るこの時代。
そういう世界に生きていて、これがあってよかっただとか、あなたがいてよかったなんていう、何かに対する大切さっていう感覚が、わかりにくくなっている。
私はふと、毎日必死で走っていたときのことを思い出した。
真夏にジャージはおって、何キロも走ると、だんだん雑念が消える。
普通に生きているとき、ふと考えるのは、喉が渇けばジュースが飲める、コンビニで好きなもん買って食べられるって言う現代人の感覚。
だけど、真夏の灼熱の日差しの下で、極限の精神状態にまでなりながら思うのはそんなことじゃない。
走る道のわきにある、1,5ℓボトルに入った猫よけの水。
とある民家の庭にまかれた水差しでできた水溜りの水。
それでいいから飲みたい、、
ジュースだとか、冷えたビールだとか、そんなもんじゃない。
それでいいから飲みたい。
ただの水でいいからお願いします。
そういう感覚。
普通に生きてたら絶対にわからないだろうその感覚。
しんどくても、そういうことを感じながら生きていたあの頃。
人はいつか死ぬもんやけど、死んで初めてその大事さがわかるなら、それって価値があることなんだろうか。
死んだことでしかその大事さ、価値が見出せないようなところまで、自分達の感覚って鈍ってるんだろうか。
今目の前にいる相手と会うのがこれで最後だとしたら、その相手に何て言うだろうか。
「ありがとう」「がんばれよ」「会えてよかったよ」
数にできないくらい言葉が出てくるかもしれない。
じゃあ、なぜそれを今伝えないの?
それがないから、それがほしい。
あの人がいないから、あの人がいてほしい。
そこにあるから、ここにいるから気付けない大事さ、そこにいないから、だから気付く大事さ。
いないから必要と感じる「欠乏動機」。
英単語“want”に「~したい、~がほしい」の意味以外に「欠乏」という意味があることも頷ける。
何かが欲しい、何かがしたい、ということは、それが今ここにないということだから。
でも、本当は、そこにそれがあるとき、いるときにその価値を見つけれたら。
当たり前にあるものに感謝を。
当たり前にあるものに意味を。
最初の歌詞には、「本当の存在は居なくなってもここに居る」って歌うけど、居なくなる前に気付きたい。
難しいことだけど。
ちょっと小難しく長い文章になってしまいました。
要は、そこにあるもの、ここにいてくれるものに感謝を持って、毎日を頑張って生きていけたら、いいなぁってこと。
熱が出たりすると 気づくんだ 僕には体が あるってこと
鼻が詰まったりすると 気づくんだ 今まで呼吸を していたこと
君の存在だって 何度も確かめはするけど 本当の大事さは いなくなってから知るんだ
今、満たされていることに感謝をできる人になろう。